連載:宇宙開発裏話

【第19回 日本海軍の固体ロケット】

 戦前のロケット開発の中心が、平塚の海軍火薬廠にあったことはあまり知られて いません。太平洋戦争が終結する昭和20年までの36年間、火薬廠は海軍の火砲発射 薬やロケット用推進薬の開発・生産拠点となり、ダブルベース推進薬を用いたロケ ットモータも作られました。モータ成形の要となる圧出機を設計したのが、火薬廠 の研究部に勤めていた村田勉です。村田は、糸川教授の呼びかけによって戦後のロ ケット開発にも参画し、ペンシルロケットからはじまる日本の宇宙開発を支えまし た。今回は戦前の固体ロケットについて取り上げましょう。

 昭和 6年頃から、海軍火薬廠では火薬燃焼の幾何学的関係が調べられ、昭和 8年 には黒色火薬の推力を計測する、初めてのロケット実験が実施されました。昭和11 年からは「火薬の申し子」と呼ばれた村田勉が責任者となり、黒色火薬からダブル ベース火薬へ切り替わりました。当時主流だった内面、外面から同時に燃焼する管 状火薬に限らず、様々な形状の火薬が試され、固体ロケットの基本的なパラメータ について明らかにしたのです。内側から燃える「内面燃焼」や、端から燃える「端 面燃焼」といった、現代のロケット工学でも用いられるこれらの燃焼形式は、村田 によって命名されました。しかし、宇宙ロケットに応用するアイデアはなく、大砲 に変わるロケット兵器の開発が目的でした。

 昭和12年、村田は大きな60kgの爆弾をロケットへ改良するように命じられました。 このロケットは、燃焼実験中に爆発事故を起こしてしまいます。当時、ロケット推 進薬は爆発成分と安定化剤などを混ぜて脱水後、加熱して可塑化(ゲル化)されて いました。可塑化後は圧出成形機で圧力が加えられ、型枠に沿って所望の形状に成 形されました。ただし、圧出機には少量の火薬しかに装填できなかったため、大型 の火薬は熱延した火薬を積み重ねて成形する、別の製造方法が採用されました。爆 発原因は、火薬の圧着が不十分であったため、火炎が隙間に入り込み、燃焼面積が 急増したためでした。大きなロケット推進薬を作るには、大量の火薬を圧出できる 新しい機械が必要でした。

 昭和13年、村田は製造部に移り、大型成形薬の研究に着手しました。火薬成形に ついて徹底的な実験を行い、圧出機の筒の断面積と型枠の穴の断面積との比が、火 薬の密度と関係していることを突き止めたのです。また、この比がある値以上でな ければ火薬に気泡が残ってしまうことも力学的に解明しました。これらの結果をも とに、村田は圧出成形機の設計を大幅に変更し、装填量を 2.5倍および5倍とした 大型圧出機を新規開発しました。大型の圧出機では噴進弾(ロケット弾)が生産さ れ、戦況が悪化した昭和19年には有人ロケット特攻機 「桜花」も作られました。

 戦後、村田は愛知県武豊の日本油脂株式会社に移り、火薬の研究を続けました。 ロケット研究を再開したのは、昭和29年のことです。糸川研究室のロケットを担当 していた、富士精密工業の戸田康明との出会いがきっかけでした。

 戸田は村田と面会し、ロケット開発の協力を打診します。ロケット技術を再び生 かしたいとかねてから考えていた村田は、喜んで承諾しました。ただし、大きなダ ブルベース推進薬を作るためには、壊れていた圧出機を修理しなければなりません。 村田は、手元にある火薬と小型の圧出機を使って、小さな管状推進薬を 200本作り ました。朝鮮戦争で使われていた米軍のバズーカ砲用火薬をロケット実験用に最適 化したものでした。糸川教授は、小さい方が経費を抑えて何度も実験できる、と逆 転の発想を抱き、この管状火薬に合わせたロケットを作りました。これが戦後の日 本で最初のロケットとなった、ペンシルロケットです。

 その後、戦前に重噴進弾や桜花の推進薬を製作していた大型の成形機が修理され、 これらはペンシルに続く、ベビーからカッパ4型までのロケットの推進薬を作りま した。兵器として開発された負の技術が、宇宙を目指す黎明期の日本のロケット開 発を支えていたのです。村田と戸田の出会いがなければ、海軍火薬廠のロケット技 術が受け継がれることなく、全くの白紙の状態から開発せざるを得ませんでした。 自前の固体ロケットを原動力に発展した日本の宇宙科学研究は、大きく出遅れてい たに違いありません。


(藤井:平塚市博物館 2014年07月)